初夏の小さなものがたり

ガラスは不思議です。天然の砂を高温で溶かし、冷え固まることでガラスになることにはじまり、その変幻自在で気まぐれな性質、光を透して輝く姿、触れたときの温度、など。数千年前よりガラスが人々を魅了してきた一つの理由に、この不思議さがあるように思います。しかし、わたしたちの暮らしにもまた、不思議さがあります。今、窓から入ってきた風はどこからやってきたのか。もしかしたら、この不思議さとは、美しさと言い換えることができるかもしれません。Sghr の製品には、そんなわたしたちに身近な不思議さ、美しさをガラスに投影し、カタチとなったものがいくつかあります。今回の特集では、とある3つの製品に紐づく、初夏の小さなものがたりを綴りました。

海辺の丘

わたしの住む街には、海がある。海には早朝、もしくは夕暮れ時に行くことが多い。闇から光、または光から闇へ。そのうつろいの時、世界は沈黙に包まれる。しばらく頭を空っぽにして、その沈黙に身を委ねたならば、その日はきっと充実するだろうし、今日も特別な日だったと振り返ることができる。最近、そんなひと時を過ごすのに気に入った場所を見つけた。海にせり出した小さな丘のような場所。地元の人にはよく知られた場所で、へそ曲がりの私は何となく避けてきたけど、ちょうど夏至の日の夕暮れに、友人がこの場所でコーヒーを淹れてくれるということで、ビーチサンダルを履いて出かけていった。海にせり出した小さな丘には、先客がぽつりぽつりといて、犬連れに、カップルや老夫婦、みんながゆっくりとした時間を過ごしている。コーヒーを味わいながら、わたしたちも他愛もない話しをする。家を出てくる前、仕事をしながら焼いたオートミールクッキーを友人がいたく気に入ってくれた。そうこうしていると、空は赤紫色に染まり、あの沈黙のひと時がやってきた。自然とわたしたちの会話も止み、感嘆のつぶやきが、ぽつりぽつりとあたりから聞こえてくる。ものの10分くらいで、夜が顔を出した。今日も特別な一日だった。わたしの心がそう言った。

雲と目が合う

良い形だったり、面白い形の雲を探そうとしても、実はなかなか見つからない。季節は夏に近づき、青々とした空を見上げることが多くなっても、これがなかなか見つからない。そもそも、雲がその形状を留めているのはごく短い間。だから雲は、知らず知らずのうちに、鯨になったり亀になったり、はたまた人の顔になったりして、こっそり、でも大胆に遊んでいるのだろう。でも時々、すっかり雲のことなんか忘れていたら、まるで雲と目が合ったかのように、パッと目に留まることがある。わたしも雲も「あっ」と声を出す。そしてすかさず、iPhone で写真を撮る。こうして、わたしの iPhone の写真アルバムには、数々の雲を撮った(採った)コレクションが並んでいる。時折、このコレクションを眺めるのが密かな楽しみになっている。さてこの夏は、どんな雲と目が合うのだろうか。

雨の記憶

わが家の玄関の軒先には、毎年つばめが巣を作る。そして、気がつけばあっという間に雛が数匹、顔を出す。成長を見守ること数日、あれよあれよという間に巣に収まりきらないほどに成長し、ある日、飛行訓練が始まる。ぎこちなく羽を動かし飛ぶ姿が、なんとも微笑ましい。そうして、親つばめも子つばめも忙しく飛び回るわけだから、家の前に駐車してある車はフンだらけになる。さすがにフンだらけだと悲壮感が漂う。なので、つばめが来るこの時期は、ガソリンを入れるついでに洗車することが多くなる。洗車機は、ちょっとしたアトラクション気分を味わえて、子どもに戻ったような気分がする。それと同時に、外の暴風雨を家の中から眺めている時の妙な安心感、その記憶が車内を満たす。そういえば、いくつか断片的に覚えている幼い頃の情景に、似たようなものがあった。幼稚園の送迎バスから降りて、母とともに家に帰ろうとした時、突然の豪雨に見舞われた。文字通りバケツをひっくり返したような雨で、不安を感じたことを覚えている。どこか近くの建物の軒先で待てば良いものの、母もわたしも豪雨の中を一生懸命に駆けた。家に着き、大きなバスタオルで雨を拭ってもらった。その時、脱衣所から見た情景が、洗車機の中の車内で想い起こされた。

構成 /文 / 写真  山根晋