冬の日々に

1000度以上の高温で溶けているガラスは、職人の手によって形を与えられ、600度あたりになると固まり動かなくなります。そこからゆっくり冷ますと、暮らしのなかで使われるガラス製品になります。しかし、どんなに固まり動かなくなっても、物としての性質は高温で溶けている状態と変わりません。つまり動かなくなった、液体のようなもの。だから、透けて見えるのです。もちろん再び高温に溶かせばもとに戻ります。そんな不思議な性質を持つガラスを、日々の暮らしのなかで使うということは、やはりガラスを通じた不思議な体験がふいに訪れるように思います。例えば、物でありながら固定された物ではないガラスと同じく、時間や記憶も自在であることに気づいたり。今回の特集では、昨夏の「初夏の小さなものがたり」の続編として、Sghr の製品に紐づく3片の「冬の日々」を綴りました。

朝の光

冬の朝、わたしには二つの楽しみがある。まずはコーヒーを淹れて飲む。これはどうしても欠かせない。それともう一つの楽しみは、家のなかに入ってきた光を見つけること。窓から低く差し込む冬の光は、窓枠やブラインドを幾何学模様にし、花瓶の花を美しい影に変え、食卓に置きっぱなしのグラスに知られざる煌めきがあることを教えてくれる。あっちにも。こっちにも。なんてしていると、その姿と形は、時間とともにすぐにどこかに去っていく。まるで、ちょっと遊びに来ただけなので、と言わんばかり。でもよく考えてみれば、日が昇れば光はいつでもどこにでもある。物が見えるということは、同時にそこに光があるということ。光を通すことで、わたしは物を見ることができるし、すこし視点を変えれば、実は光を見ているとも言えるのかもしれない。すると、午後のどんよりした曇り空をうつす窓際で、この文章を書くわたしの傍にあるグラスにも、実は今朝の光が可能性のなかにあるのかもしれない。

 

北斎の富士

冬になり、海に散歩に出かけることが多くなった。ダウンジャケットを羽織り、とぼとぼ砂浜を歩くと、だんだんと体も温まり、寒さでちぢこまった感覚もほぐれていく心地がする。ふと遠くに目を遣ると、透きとおった空気の先に、富士山がはっきりと見えている。わが家からほど近いこの海岸は、かの葛飾北斎が描いたひとつの景色。もちろんその中にも、はっきりと富士山が描かれている。つまり、今わたしは北斎の画のなかにいる。なにげなく散歩に出たはずが、なんと江戸時代まで来てしまった…。それはそうと、この画も連作の一部である北斎の代表作「富嶽三十六景」のすべてに富士山は描かれている。荘厳な姿であったり、暮らしの営みの背景としてさりげなく配されていたりとバリエーションに富んでいる。それだけ当時の人々が富士山に対して篤い信仰と、ある種の親しみを持っていたことが分かる。それは、冬の澄んだ空気のなか、遠くに富士山の姿を探す今日のわたしと重なるところがあるのだろう。そんなことに想像を巡らせ、散歩の帰り際に撮影した写真には、ずんぐりとふくよかな鳩が写っていた。

 

春の萌芽

冬の寒さ厳しいなか、光や風、鳥や虫の音よりも、真っ先に春の兆しを感じさせてくれるのが、梅の木の蕾。毎年のお正月に決まってご挨拶に伺うとあるお宅の庭先には、樹齢50余年になる立派な梅の木がある。いわゆる白梅ではなく、深紅の実を付ける紅梅という品種だそう。なんでも、中国では薬として使われるということで大変重宝されるらしい。ご主人いわく、その歳の気温や日照りによって梅の開花時期は微妙に差があるとのことで、早い時はお正月に、遅い時は1月末と約1ヶ月も違うと言う。ちなみに今年のお正月に伺ったところ、まだまだだねと。ある意味では人が作った暦よりも正確なのかもしれない。でも、梅の木をしげしげと鑑賞させてもらうと、そのぷっくり膨らんだ蕾には、春が詰まっていた。するとそこに鶯のつがいが飛んできて、枝に留まる。花も咲いていないのに鶯が来るのは大変珍しいとのことだった。わたしには和歌の心得はないけれど、万葉集をはじめとして古くから梅が多くの和歌のなかで詠われていることに、合点がいくような光景だった。

構成 /文 / 写真  山根晋