秋の季語

近頃「二季」なんて言葉が言われるほどに、暑いと寒いの間の季節が短くなったと実感します。もう少し長く、お気に入りの長袖シャツを楽しみたいのですが、気がつけばセーターを着ているような。しかしその分、春と秋を好む気持ちが芽生えています。人にとって程よく心地よい気候のなかにいると、数年前、数十年前の記憶がふわりと風のようにやってきては去っていく、そのような経験はやはり格別なものです。

一年のなかで秋がもっとも好き、という方は少なくないでしょう。朝、部屋に入ってくる爽やかな風と、日中には夏の日差しの名残りを肌で感じます。そして夜の街にある一片の寂しさ。今も昔も、そうした感性を短い言葉の連なりで表すのが俳句です。そして俳句の要となるのが季語。秋の「季語」をヒントに、三編の短いエッセイをお届けします。

新涼

いわゆる温かさにほっとする、だけでなくそれとは逆の、涼しさにほっとするような、そんなことが9月の下旬、年によっては10月の上旬のとある日に感じる。「やっと涼しくなった(助かった)」、暑さが苦手な私としてはそんな一言が自然と漏れ出てしまう。そんな季節の変わり目、机の片隅に置いてある平凡社の『俳句歳時記 秋』をぱらぱらとめくる。俳人と専門家によって厳選された季語が集録されていて、これからやってくる秋の地図を手に入れたような、そんな気分にしてくれる。「新涼」という季語に目が留まる。涼しさに新しさがあるのか、そんな小さな驚きと、あの日の涼しさのことかもしれない、そんな想像を巡らす。新春、新緑、新学期、どこか新しさといえば春のものであることに疑問を持った俳人が、秋のなかに新しい涼しさを見つけたのだろうか。終わりなき清々しさ、そんな体感を「新涼」という季語から感じる。

芦刈

「芦刈」とは何だろうか。『俳句歳時記 秋』にはこのような美しい解説が書いてある。「秋の末、空が毎日澄んで、川辺や沼辺の芦の枯れはじめる頃、これを刈りとって簾を作ったりする。川辺ならば刈束を車に積んで帰ってゆくし、沼辺ならば舟に載せて漕ぎ戻るのである。刈ったあとは急に水が広くなって、寒さが加わって来る」まるで絵に描いたような情景が伝わってくる。秋晴れが続き空気が澄んで水際の芦が枯れ、それを来年の夏の暑さを和らげるための簾を作るために刈り、すると水場は冷え込み冬を迎えていく。季節と営みが美しく混ざり合う時間が立ち現れると同時に、こういう時間を人が取り戻すことはもうないのかもしれないという想いに駆られる。
「芦刈」の隣には「芦火」とある。刈った芦に火をつけて暖を取ることだそう。絵であった情景が、とたんに映画になった。

色なき風

なにげなく吹く風が、秋という季節のことを教えてくれる。そんな気がしている。千年以上前に編まれた古い和歌集に「色なき風」という言葉がすでにあるそうだ。華やかな色はないが、寂しさが身に沁み透るような性質を、秋風に感じ取った季語で、意を得たりと思った。実は俳諧に使われた例はあまりないようで、しかし芭蕉の句「石山の石より白し秋の風」に登場する白し風というのは、少なからず影響があるのではと考察されている。そしてこの句自体にも、秋を楽しむ深い味わいが漂う。
「色なき風」といえば、透明なガラスもまた思い浮かぶ。そこに寂しさというものは感じないが、色がなく透き通っていることでかえって伝わってくるものがある。例えば光、それ自体。色に翻訳されない光がカタチになってそこにあるような。色のない風、色のない光、色がない秋にもう少し留まっていたい。

構成 /文 / 写真  山根晋
2026年11月